![]() | ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番 北ドイツ放送交響楽団 (1997/09/26) BMG JAPAN この商品の詳細を見る |
昨日に引き続きブラームスの交響曲第1番をヴァントと北ドイツ放送交響楽団のコンビで聴いてみました。
のっけからテンポの速さに驚かされます。そして、誰かが扉を叩いているような切迫したティンパニーの連打にまずは打ちのめされます。テンポのコントロールが自在に行われ、ダイナミックレンジも広いです。雄々しいブラームスです。甘えや弱音を挟み込む余地は全くありません。もちろん時折優しい貌を覗かせることもあるのですが、雄々しい雄叫びを感じることの方が多いのです。悲痛なまでに魂の深いところにある情念を汲み上げ続ける意志力と集中力。最終楽章の最終小節に至るまで一分の隙も見せない集中力の持続。これもまたドイツ的(あるいは北ドイツ的)強靱な意志力の表出なのだと感じ入り、かつ畏れを抱くのでした。
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1992年、百の短篇とよばれる「ある生涯の七つの場所」の文庫版第一巻「霧の聖マリ」が発売された。僕がこの短篇を手に取ったのは、辻邦生さんが済んでいた高輪のそば、品川プリンスホテル内の書店だった。大学受験で上京した宿泊先が品川プリンスホテルだったのである。「霧の聖マリ」の最後に辻邦生さんの文庫版あとがきが入っていて、その最後に「一九九一年師走 東京高輪にて」とあった。品川プリンスホテルの裏はすぐ高輪であることを知っていた若い僕は、ニアミス、あるいはシンクロニシティの神秘に心をふるわせたのだった。
一年間の浪人が決まり、いよいよ勉学に励まなければならない状態にあった。家族は僕のことを無視し続けていたが、何とか予備校に通って、勉強にいそしんでいたつもりだった。
そんな中でも読書だけは忘れなかった。「ある生涯の七つの場所」は1992年一年間をかけて二ヶ月おきにゆっくりと文庫版が刊行されていた。僕は隔月刊行の文庫を待ち続け、予備校近くの書店で発売日には早速と買い求め、通学電車の中で時を忘れて読み続けたのだった。百の短篇が織りなす時代のタペストリーの全体像を思い描くには、それなりの準備が必要だと思うのだが、百の短篇一つ一つに織り込まれた人間の情念や美への揺るぎない信念を感じるには、短篇一つを読むだけで十二分に味わうことができた。
一つの短篇を読み終わるたびに訪れる、まるで大理石を削りだして生まれた彫刻をみるような甘美な気分や、人間の情感がもたらす不思議な物語に触れた時に訪れる人知を越えたものへの憧憬を、ゆっくりと楽しんだのを覚えている。
僕の辻邦生作品へのひとかたならぬ思いを形成し、読書の楽しみを教えてくれたのは、浪人中に読んだ百の短篇なのである。
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![]() | 夏の海の色 辻 邦生 (1992/04) 中央公論社 この商品の詳細を見る |
<泉:■黄色い場所からの挿話 VIII>
ある生涯の七つの場所について、少しずつ書いていこうと思います。本当は最初から書き始めるのがよいのでしょうが、僕の好きな「夏の海の色」から始めてみようと思います。
この掌編では水の描写を楽しむことができます。たとえばこんな冒頭部分など。
泉は村の広場の真ん中にあって、石に彫られた獅子の口から勢よく迸る水はきらきら光る弧を描きながら、浅い水盤の上に落ちていた。水盤を溢れた水は、もう一段下の水槽に、薄い簾状の滝になって、音をたてながら流れていた辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、11頁
水盤を溢れて、簾状に落ちてゆく水は、水と言うより、硬質の滑らかなガラスのような感じで、とくに水盤の縁をまるく、しなやかに越えていく透明な脹らみは美しかった。辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、13頁
ただ感嘆のみ…。
エマニュエルと「私」のことは、これからどうなるかを知っているだけに、複雑な気分。エマニュエルは本当に強い女性だと思います。そして、エマニュエルを産み出した辻邦生の「物語り」に深い驚きを覚えてしまうのです。物語作家は、ある種文中人物に憑依されて、文章を書いているのではないか、と思います。
この事件にもやはりスペイン内戦の暗い翳りが感じられるのです。おいおい読み進めていくことで明らかになってきます。
───これから読む方はここから先は読まない方が良いかと存じます───
あらすじ
アルプスの麓、夏の休暇にチロル地方の小さな村で暑さを避けているエマニュエルと「私」。ゆっくりとした時間でエマニュエルは論文の準備をする。
「ゆっくり時間のあった時代の仕事さ」辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、12頁
「いいえ、ここには、いまも、ゆっくりした時間があるわ」
「そうかもしれない。ここに来てから、まるで時間が過ぎてゆかないものね」
その村の泉にまつわる奇怪な出来事。人間の手首が切られて泉の中にうち捨てられていたというのだ。ひまわりの花もたくさん浮かべられていたのだという。その手首の持ち主は、マルティン・コップと言うのだそうだ。私とエマニュエルは推理を始めるが、もちろん妥当な結論に至ることはできない。
エマニュエルが論文を提出したあと、「私」はエマニュエルと実はきちんとした関係(結婚と解釈するのが妥当だろう)をしたかったのだが、エマニュエルはそれを拒むのだった。
しかしエマニュエルはそうした危険を感じながら、日々新たに情念を確かめる生活でなければ、男女がともに暮らす理由はないと考えているのだった。辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、32頁
「それは人間を過信した傲慢な態度じゃないだろうか」
(中略) 「過信?」エマニュエルはそういうときのつねで、頬のあたりがほっそり窪んだ感じの顔を俯けて言った。「私はそうは思わないわ。むしろそのことだけは、もっと信じたいと思うわ」
「しかしまるでむき出しに風の中に晒されているようなものじゃないかな」
「それに疲れて、駄目になったら、私ね、悲しいと思うけれど、安全地帯にいて、惰性的な形を保った方が良かったとは言わないと思うわ」
クリスマス休暇に入ると、エマニュエルと「私」は別々に休暇を過ごすことになった。「私」は日本人の友人とともに北フランスの小さな村で過ごすことになった。そこで出会ったニコラの家に招かれる。旧式の複葉機と男が映った写真を見つける。ニコラの父親だという。スペイン市民戦争に人民戦線側について参戦したのだという。人民戦線が敗れたのち、飛行機に乗って脱出しようとしたのだが、相棒の男に飛行機を奪われ、果てに指を切られてしまったのだという。ニコラの父親はひまわり畑のなかを自分の切断された指を探し回ったのだという。ニコラが指のことを聴くと、ひどく機嫌が悪くなったのだそうだ。「私」は、あのチロルの村での奇怪な出来事を思い出し、ニコラの父親がマルティン・コップを殺めたのではないかと推理する。エマニュエルに手紙を出す「私」。エマニュエルから返事が届く。
「私は世の中に恐ろしい偶然があり、符号があることを認めています。それでも、なぜか、それを信じてはいけないような気がするんです。その理由はいろいろありましょう。その中で有力な理由は、私が運命の力を最小のものに見なしたいと思っていることかもしれません。私が偶然の力を過小評価しなければならないと考えているからかもしれません」辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、40頁
![]() | ブラームス:交響曲第1番 ベーム(カール) (2006/02/15) ユニバーサルクラシック この商品の詳細を見る |
「のだめカンタービレ」でブラームスの交響曲第1番が取り上げられたので、家にある幾枚かをゴソゴソと探し当てて、早速聞き始めてみました。最初にサヴァリッシュ盤。ふむ、良い感じです。そして次にベーム盤。ベームがベルリンフィルを1959年に振った盤です。ベームって、亡くなってからは不遇だと聞くけれど、いいなあ、と思います。何がよいのかというと、この滑らかなデュナミークに体が揺さぶられるような感じ、です。特に第2楽章のたゆたう感じ。ホルンとヴァイオリンのユニゾン。もう50年近く前の録音になるのですね。半世紀近い時間を経てもすり減っていない音楽だなあ、と思います。椅子に座って目の前のスピーカを見つめていると、いやなことを忘れてしまうぐらい。これもドイツの良心なのではないか、と思うのです。
ところで、ブラームスの交響曲第1番の定盤って誰の盤になるのでしょうか?あまりレコード批評を読まないので、分からないので、ちょっとその類の本でも読んでみようかなあ、と思うのでした。あまり批評に振り回されるのは苦手なのですけれど。
![]() | Shostakovich: Symphonies Nos. 10 & 11 Anatoli Safiulin、 他 (1999/02/05) Melodiya この商品の詳細を見る |
ロジェストヴェンスキーとソヴィエト連邦文化省交響楽団の演奏によるショスタコーヴィチの交響曲第10番を聴いてみました。一年365枚さんでカラヤン盤のショスタコーヴィチが紹介されていたので、触発されたのです。
最初に録音についてですが、残響感がとてもすばらしいです。1986年にモスクワでの録音とあるだけで、残念ながら録音場所についてのは記載はありません。
この録音はNHK-FMでオンエアされていて、中学生の頃に激しい衝撃を受けたのですが、同じ音源のCDを探していました。そんな折、メロディアレーベルが廃盤になるという噂を聞いたので、ロジェストヴェンスキーとソヴィエト連邦文化省交響楽団のコンビによるショスタコーヴィチの交響曲の録音をすべて購入したのでした。その中の一枚がこのCDだったわけです。
さて、演奏なのですが、僕にとっては交響曲第10番のデフォルト音源なだけに、本当に心から共感できる演奏です。ほとんど洗脳されていると言ってもいいでしょう。
特に第2楽章の攻撃的で緊張感のある演奏に当時感銘を受けたのを覚えています。金管の鋭くてアタックの強い音なので、時代の緊張感がそのまま突き刺さってくるようです。その時代とは、スターリン圧政時代でありソ連邦末期の混乱した時代なのです。
第3楽章の静謐な雰囲気の中にも絶望感や憂愁感が漂っているあたり、すばらしいです。ホルンが吹くDSCH音型も美しく遠くへと響き渡ります。やはり録音場所の残響感によく助けられている感じです。後半部のDSCH音型の発展系が切迫した悲痛な叫びに聞こえてなりません。それにしてもこのオケのホルン、かなり上手いです。高音域を音を乱さずに柔らかくよく響く音で吹いています。
第4楽章、木管が支配する冒頭の雰囲気、憂鬱な者の傍らに寄り添ってくれている感じ。オーボエ、フルート、イングリッシュホルンがすばらしいです。この楽章もDSCHに支配されていますが、祝祭的な様相も呈しているのです。
一年365枚さんの記事の中で、作曲家の吉松隆さんのウェブでこの曲についての紹介がなされていることを知りました。こちらも興味深いです。
残念なことに、僕の聴いているCDは今は廃盤となっているようです。
参考
- 「ロジェストヴェンスキー」(2006年10月23日 (月) 11:34 UTC版)『ウィキペディア日本語版』
![]() | ロッシーニ:セビリャの理髪師 アンブロジアン・オペラ・コーラス、アンプロジアン・オペラ・コーラス 他 (1998/05/13) ユニバーサルクラシック この商品の詳細を見る |
近々新国立劇場の「セヴィリアの理髪師」を見に行く予定なので、今日は予習がてら聴いていました。2002年に新国で観た演出が変わったそうです。2002年の演出はあまりにオーソドックスだったのですが、そろそろ奇抜な演出にも首肯できるようになってきたのでとても楽しみです。
![]() | バルトーク:管弦楽のための協奏曲、中国の不思議な役人 ラトル(サイモン) (2002/11/20) 東芝EMI この商品の詳細を見る |
バルトーク/バレエ音楽「中国の不思議な役人」作品19を、ラトル指揮のバーミンガム市響で聴いてみました。前回に続いて憂鬱な時に聴いてはならない曲でした。
簡単なあらすじ。登場するのは少女ミミ(ボエームではありません)と三人の悪党、そして不気味な役人。悪党たちは少女ミミに役人を色仕掛けで誘惑させ、金をせびりとろうとしています。ミミを抱擁しようとする役人を三人の悪党は殺しにかかりますが、ナイフを突き刺しても首をつるしても息絶える様子はありません。ついに役人はミミを抱擁するのですが、とたんに役人は息絶えてしまうのです。
なんとも頽廃的なあらすじで、曲を聴いて心がかき乱されるのはやむを得ないですね。若きラトルがバーミンガム市交響楽団を振っているのですが、若々しいだけに激しく情熱的な演奏なのでした。
ところで、最近思うのはラトルにも当たりはずれがあるのだ、ということです。もちろん、ラトルのすばらしい演奏に当たることのほうが多いのです。ちなみにこのCDは当たりでした。
参考文献
- 箭田 昌美 「「中国の不思議な役人」の不思議な物語」
<http://www.shinkyo.com/concerts/p181-3.html>
新交響楽団ホームページ<http://www.shinkyo.com/index.html>
(アクセス:2006年11月25日) - 「バルトーク」(2006年11月15日 (水) 01:23 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9
![]() | Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite Alban Berg、 他 (1991/01/14) Sony この商品の詳細を見る |
ふと思いついて、ルル組曲をブーレーズ指揮ニューヨークフィルの演奏にて聞いてみましたが、この曲は憂鬱なときに聞いてはならない曲です。あまりに憂愁の色がこく、滅入ってしまいます。十二音階の不安定さが、夕方になって垂れ込めてきた鉛色の空に相まって、不安が心に忍び寄ってくる感じです。耳にこなれたフレーズさえも、まるで聞き手を裏切るように無調へと逃げ去ってしまい、強い空虚感を覚えるのでした。ヴァイオリンの鋭い美しさは黒魔術的な様相を呈した怪しい美しさで、手を触れると呪われてしまうかのように思えてしまいます。美しさの裏側にあるある種の非倫理的なにかがここに浮き彫りになってくるような気がしてなりません。昂じる不安感と闘いながら聞き続けるのですが、突然悲鳴声が聞こえてくるのです。切り裂きジャックにのどをかききられたルルの断末魔の叫び。いよいよ不安感が大きくなり、これ以上聴けない、とおもわされるのでした。
ふふふ、面白いウェブツールを見つけました。タイムカプセルです。これで未来の自分にメッセージを送るのです。さあて、そのころどんな自分になっていることやら…。楽しみですね(少し怖いですが)。
![]() | ラジオドラマCD 西行花伝 (2006/06) エニー この商品の詳細を見る |
西行花伝のラジオドラマCDを発見しました。早速注文してみました。とても楽しみです。
![]() | 西行花伝 辻 邦生 (1999/06) 新潮社 この商品の詳細を見る |
ちなみに、西行花伝はなぜ「花伝」なのでしょうか?おそらくは能の形式である「夢幻能」を意識しているのではないかと思うのです。夢幻能とは、
亡霊が主人公(シテ)となって、僧(ワキ)の前に現れ、過去を語り、僧の供養を受けて成仏する
松岡心平『能 狂言 風姿花伝』週刊朝日世界の文学第28巻、2000 8-230ページ
という構造です。そこで何が起こるかというと、ワキが観客の代表としてシテの物語をリアリティーを感じながら聞いている、ということを演じている訳です。自ずと観客もワキと同じ立場に立って、リアリティを持ちながらシテの物語に没入していくことができ訳です。
このワキとも言うべき語り手が登場するケースが辻邦生作品の中には非常に多いと思います。いま思いつく限り並べてみると…。
- 春の戴冠(サンドロをフェデリゴが語る)
- 夏の砦(支倉冬子をエンジニアが語る)
- 廻廊にて(マーシャを日本人画家が語る)
- 西行花伝(西行を弟子が語る)
- 安土往還記(シニョーレをディエゴ・デ・メスキータが語る)
- ある生涯の七つの場所(宮部音吉を「私」が語る)
などなど、枚挙にいとまがありません。作品中の脇役ないしは語り手が、主人公を語ることで、物語世界のリアリティがより強固なものに補完されていくのです。
さて、辻作品関連のCDといえば、以下もあります。
![]() | 細川俊夫作品集 音宇宙(9) 細川俊夫、東京少年少女合唱隊 他 (2004/02/21) フォンテック この商品の詳細を見る |
冒頭のハープ協奏曲が辻邦生に捧げられていますが、辻邦生はこの作品の完成を心待ちにしたそうですが、完成を待たずして99年の夏に急逝しまったのです。2001年3月31日6時からサントリーホールにて、秋山和慶指揮、ハープは吉野直子、東京交響楽団によって初演されました。学習院大学で2004年の晩秋に行われた辻佐保子さん(辻邦生の奥様)の講演に際して、講演前の待ち時間にこの曲流されいたのを覚えています。
![]() | Richard Strauss: Capriccio / Sawallisch, Philharmonia Orchestra Richard Strauss、 他 (2000/08/15) Angel この商品の詳細を見る |
会社に向かう満員のバスの中で、思い立ってipodをスクロールして、サヴァリッシュ盤を聴き始めたのですが、冒頭の弦楽合奏でもう泣いてしまうのでした。昼休みにはクレロンと伯爵の朗読シーンと、フラマンが作曲するソネットに泣いてしまうのでした。ハープシコードの端正な和音と、それに寄り添うように弦楽合奏が絡んでくるあたりの優雅さといったら!カプリッチョはシュトラウス芸術の結晶化した花です。
もちろん、それは、ドレスデンで観たカプリッチョの記憶と間違いなくつながっていて、照明の落とされたザクセン州立歌劇場で、指揮のペーター・シュナイダーが、薄暗いオーケストラピットのなかで唯一天から差し込むスポットライトで浮きあがって見えていて、彼の指揮棒の動きにあわせて、弦楽部の一番前に座る首席奏者たちがおもむろに弓を動かし始める瞬間の緊張感と、静かに始まる弦楽合奏がもたらす絹糸に触れたような酩酊感が思い出されたからでした。
9月にNHK-BSで放送されていたカプリッチョも本当によかったです。
10月にドレスデンでカプリッチョを見ることに決めた数日後、NK-BSでカプリッチョを放映することを知ったのでした。まさにシンクロニシティの様相です。
この映像はウルフ・シルマーがパリで振ったバージョンで、ライブ録音なのだろうけれど、あとから映像をかなりいじっていて、すばらしく大胆な演出に仕立て上げていました。月光の音楽以降の伯爵夫人のモノローグが、幕中劇として扱われているのです!ルネ・フレミングが伯爵夫人を演じていたのですが、歌っているルネ・フレミングを客席からルネ・フレミングが観ているという構造。心躍る大胆さでした。「自分の演奏を客席からみてみたい」という欲求は音楽家の方なら一度は持つことがあると思うのですが、それを編集で具体化してしまったあたり、大胆でした。フレミング、よかったなぁ。賢明で誇り高く美しい伯爵夫人を見事に演じていたと思います。
しかし、本当にいい思い出だなあ、カプリッチョ。また見られるものならみたいオペラだなあ…。
Polygram Int'l (1993/03/16)
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ヴァイオリンソナタ第1番ト長調作品78を、デュメイとピリスのコンビで聴いてみました。いいなあ、ブラームス!久々にブラームス作品を聴いて本当に癒されました。四方八方から滅多打ちにされたあとにこういう演奏に触れると、深く癒されるのを感じます。できれば、窓から暗い海岸が見える薄暗い部屋で、独りになって聴いてみたいなあ、という感じです。
このコンビは、フランクのヴァイオリンソナタやブラームスのピアノ三重奏曲第1番でも競演しているのですが、それらの録音と同じく、溶けてしまうぐらい柔らかくて甘いアンサンブルなのです。デュメイのヴァイオリンは豊かな倍音をよく響かせています。ピリスのピアノは、ソフトペダルを踏みっぱなしなんじゃないかと思うほど柔らかくて優しいタッチです。この録音ではドイツ的な厳格さではなく叙情性を楽しむことができるのです。もしかしたらこういう音が苦手な方々もいるんじゃないか、とも思うのですが、僕は幸福なことに楽しむことができるようです。
聞き始めるとピリスの静かな和音に導かれてデュメイがそっと弦に弓をおく瞬間が感じられます。最初のヴァイオリンの六つの音符でもう参ったという感じ。この演奏にひれ伏さざるを得ません。穏和な感じの主題は展開部で激しく情感的に揺さぶられます。第二楽章は陰鬱な感じに歌い上げられています。救いなのは長和声で終わることでしょうか。そして第三楽章はすこし寂しげな舞曲風な楽章です。寒風に吹きさらされているドイツの田舎の街を独りで歩いている感覚です。最後はきちんと長和音で終わってくれるのが救いでしょうか。
この曲は1878年から79年にかけて作曲されました。そのころのブラームスは作曲家としてしっかり認知されていました。苦しみながら書いた交響曲第一番も既にできあがっていましたし、交響曲第二番も完成を見ていました。このころのブラームスはとても精神的に安定しているはずなのです。なのに、この寂寥感は何なのでしょうか?北ドイツ人のブラームスが持つ憂愁感が現れている、と片づけてしまいたいところですが、もう少しいろいろと想像するのもいいと思います。
![]() | Schumann: Liederkreis Op.39/Dichterliebe Op.48 Dietrich Fischer-Dieskau、 他 (1990/10/25) Philips この商品の詳細を見る |
シューマンの「詩人の恋」作品48と「リーダークライス」作品39を、ディースカウとブレンデルのコンビで。
詩人の恋はハイネの詩に曲がつけられています。どれもがロマン的な恋愛感情を歌ったものでです。あまりに若々しすぎて、ふつうの健康な人間にとっては女々しい詩かともとらえられてしまうおそれがあると思います。ですが、詩人や音楽家のように、常に魂と格闘している人間にとっては、アクチュアルな問題なのです。それは恋愛感情にとどまるものではなくて、たとえば真善美の追求といった問題にまで拡大できるのだと思います。解説書には、シューマンが妻(クララ・シューマン)に対して抱いていた感情がこの曲を作らせしめたと書いてありましたが、果たしてそれだけなのでしょうか、という疑問を抱いてしまいました。単なる恋愛感情を赤裸々に述べるのではなく、もっと高次なレベルにまで昇華できうるのが芸術家の芸術家たる所以の一つなのではないでしょうか。
「詩人の恋」では、歌詞が未解決の和声で終わることが多いのです。それを解決するのが伴奏のピアノなのですが、この仕掛けも、すこしうがって考えてみると、詩人が歌手でピアノがその相手だったりするのではないか、とも思えてきます。最後の解決はピアノが与えるのですが、それは、詩人にとって必ずしも望んだ解決ではないはずで、だからこそ短調の和声で曲が閉じられることが多いのです。
「リーダークライス」のほうはアイヒェンドルフの詩に曲がつけられています。「詩人の恋」にくらべて、詩の意味するところは多くのアレゴリーで覆われていて、その深い森の中に分け入っていく努力を必要とします。やはりそこには喪ったものに対する愁然たる思いが満ちているような気がします。9曲目「悲しみ」では夜鶯の歌に込められた深い嘆きには誰も気づかない、と訴える部分があります。この部分も健康的な大人にしてみれば、なんと女々しいことを!と思う向きが多いと思います。しかし、それが芸術家の栗シミなのでしょう。ただの石ころに見えるものであっても、それが宝石の原石であることを見抜き、懐でゆっくり暖め熟成さえ、いつの日か美しい宝石に磨き上げてしまうのが芸術家というものなのでしょう。
12曲目「春の夜」は、春の到来に寄せる歓喜が歌われているように思えますが、果たしてそうなのでしょうか?ここでも夜鶯が登場し、「あの人はおまえのもの!」と歌います。しかしそこに込められた真の意味は、誰にも分からないのです。それは9曲目「悲しみ」で暗示されています。春ほど美しい季節はありませんが、春ほど残酷な季節もないのです。皆が皆春の美しさを享受できるとは限りませんから。
ディースカウは低音から高音まで本当によく聴かせてくれています。低音で雄々しい詩人を歌うかと思うと、今にも消え入りそうなナイーブな高音で、嘆く詩人をも演じています。ドイツの生んだ良心がここにもあるのだな、と思ったのでした。
![]() | 楽興の時十二章 辻 邦生 (1990/11) 音楽之友社 この商品の詳細を見る |
![]() | 辻邦生全集〈8〉 辻 邦生 (2005/01) 新潮社 この商品の詳細を見る |
![]() | マーラー:交響曲第3番 アバド(クラウディオ)、ラーション(アンナ) 他 (2002/03/13) ユニバーサルクラシック この商品の詳細を見る |
その作家の作品の中で、一番最初にであった作品ほど印象深いものはありません。
それはまるで、ある音楽作品を聴くのが初めてで、その演奏がきわめて印象深かったとき、音楽作品と演奏が深く結びつき、まるで音楽作品と演奏が切っても切り離せない不可分な関係にあるかのように思えるのと似ています。実は、その音楽作品の演奏は、さまざまな演奏者によって行われていて、その演奏の解釈はそれぞれにおいて違うはずで、もちろんどれがもっとも優れた演奏であるといったような命題は陳腐な命題となるのでしょうけれども、その音楽作品を聴いた私にとっては、初めて聴いたその演奏が最も優れた演奏に思えてならないのです。
作家の作品においても、最初に出会った作品において、八分がたその作家の評価を定めてしまいかねず、それがいい方向に向かえば、その作家との良い関係を築くことができるでしょうし、それが悪い方向に向かえば、その作家との関係を修復するのは難しくなることでしょう。そして、前者であったとすれば、それは恩寵とでも言うべき幸福な関係となるに違いないのです。
私が辻作品に出会ったのは、高校2年の年で、炎暑に見舞われた京都から下る東海道本線の座席について、今は休刊となってしまった「音楽芸術」誌を開いたときでした。「樂興の時 十二章」と題された連作短篇集の第11話「桃」がそれだったのです。マーラーの交響曲第3番をモティーフにしたその作品は、老外交官が死に際して己の人生を振りかえるにつけて覚える苦い悔恨と、幼い孫の無邪気さや看護婦の若い力による諦観が描かれていました。
タイトルの「桃」は春の若々しさを想起もさせ、また二元の根源的欲求をも感じさせるモティーフで、老外交官が中国奥地へ赴いたときに、霧中から突如あらわ得る桃畑のイメージが、精神の底深いところに常に存在する若々しさや生への根源的欲求を象徴しているのでした。
マーラーの交響曲第3番では清純な少年合唱が登場しますが、幼い孫たちのイメージと重なります。少年合唱は「ビム、バムBim Bam」という歌詞で始まります。鐘の音は、ミサを想起させますし、果ては葬送をも想起させるのです。短篇中にゴシック文字で挿入されるエピソードに登場する子供たちの姿は、交響曲第3番の少年合唱でもあり、あるいは老外交官を彼岸へと導く天使たちの行進なのかもしれません。
老外交官の苦い悔恨を読んで、自分はそうならぬよう人生を生きなければならぬ、と読んだ当時強く決心したものでした。しかし、現実はそうも上手くゆかないようです。今朝方の通勤電車の中でもう一度短篇を読み返してみたのですが、老外交官の覚えた悔恨に似た人生の苦みを噛みしめたのでした。
しかし、老外交官は、幼い孫たちや若い看護婦との邂逅によって救済され彼岸へと旅だったようにも読めるのです。辻作品はどれも一遍的な解釈を許しません。答えを与えることはしないのです。そこにあるのは現前とした事実の提示とあるべき理想の姿の示唆です。読み手は、事実の提示と理想の示唆の間で、まるで解決を求める不協和音の響きのような心地よい不安定感を感じつつ、その両者を止揚する努力を決意させられてしまうのです。僕が今朝方感じたのもやはり同じ止揚への決意でした。
しかし、なんということでしょう。これまで辻作品を幾度となく読んで何度もこの止揚への決意を感じたはずだったのに、現実世界の濁流に呑み込まれて、そこをただ泳ぐことに必死で、岸辺へと向かい濁流から身を上げる努力を怠っていたことに気づかされたのです。それが、先ほど述べた悔恨に似た苦みだったのです。
ですが、次の二つの引用をもって、辻邦生作品から「生きること」の大切さを再認識したいと思うのです。 そして、また止揚への努力へと自らを奮い立たせようと思うのです。
生きると言うことに後も前もない 今があるだけだった こうして黄金にきらめく海を大出いるように今がすべてであり いましかなく 今に抱かれるとき 今は豊かな母の胸に変わっていた
「樂興の時 十二章」/辻邦生/1991年/音楽之友社/200ページ
「オレンジを齧っていたね。あれが生きるってことかもしれない」
「オレンジを齧るのね。裸足でね」
「そうだ、オレンジを齧るんだ。裸足でね、そして何かに向かってゆくのさ」
「サラマンカの手帖から」/辻邦生/1975年/新潮文庫/282ページ
「桃」についてはまだまだ語りたいことがたくさんありますし、辻邦生作品について語りたいことはもっとたくさんあるのですが、今日はひとまずこのあたりで終わりにしておきましょう。
![]() | Symphonies 1-4 Schumann、Sawallisch 他 (2002/04/09) EMI Classics この商品の詳細を見る |
ホルンの音に導かれて、瑪瑙細工のように厚みはあるけれどその奥から金色の光が差し込んでくるような、聴き手に寄り添うってくるやわらかい弦楽部の序奏部。金管部と弦楽部との対話が続き、弦楽部の高音域から低音域までの幅広い音帯の中で、自在に繰り広げられる和声の響きが、まるで整然と駆ける軽騎兵団ような軽やかさで主題を展開させて行きます。展開部のフーガの伸張も見事。ゴシック教会の天井の梁が均質かつ複雑に絡み合っている様子を思い出させます。ヴァ





















